「マイマイ新子と千年の魔法」

 というわけで、ちょっとした切っ掛けで観に行ったアニメにハマってしまいました。
 もともと全国的に多くの劇場でかかっていない上に、公開終了も迫っているので(公開直後からしっかり追っかけておけばとちょっと後悔)、急いで2回目の鑑賞。5日(土)がわずか3名の観客だったのが、6日(日)は10名以上には増えていたのでちょっとうれしい。
 で、観終わっての感想としては、初見のワクワク感がほとんど変わらないという、割と珍しい状態。
 年間に100本前後の映画を観る自分としては、もはや「映画を観る」という行為が当たり前のことで、割と批評的な目で観ることが多くなる。だから、結構機械的に「面白いか、面白くないか」とか「出来がいい、そうでもない」という価値判断だけで終わりということが多い。
 そんな中で本当に何年かに数本、作品の出来不出来とは別の部分が心に引っ掛かってどうしようもなくなることがある。この作品はまさにそれで、今の感じは何度でも劇場に足を運びたいと本気でそう感じています。
 洋画、邦画、アニメ、実写といった区別とは関係なく、本当に楽しかったり、心がざわざわしたりする作品は久しぶりだと思います。(この前そんな感じになったのは、細田守監督の「時かけ」の時だったと思う。)
 とは言え、この作品の「出来の良さ」は言わずもがなので、そのあたりは下にはったYoutubeの映像を観ていただくとして、このエントリーではなんでここまで僕がやられちまったのか、(恥ずかしながら)独白してみたいと思います。
 
 あくまでも個人的な見解なんですが、「マイマイ新子と千年の魔法」という作品が多くの人の心を打つのは、たぶん「永遠」とは何かについてを描いているからではないかと思うのです。
 人間は大人になる過程で、様々な事柄を自ら捨てたり、諦めたりするものだと思います。それら失ったものを補う意味で「思い出」というものが非常に役立つのですが、それが行きすぎると新海誠の「秒速5センチメートル」になってしまう(笑)。
 大概の人たちはあの作品に主人公のようになる前に「思い出」自体を忘れてしまうのであまり心配する必要は無いのですが、それも「心地よい過去にとらわれる」とういう甘美な誘惑には抗しがたい魅力があるのも事実。その辺は自分も含め様々な事柄をいくつも捨ててきた大人には、時として言葉には言い表せないような感覚を思い起こさせる。
 しかしこの映画は、過去の美しい「思い出」についての映画という体裁をとりながら、決してその枠に収まること無く、無くなってしまうことのない真の「永遠」について描いてしまっている、ここがスゴい。
 この作品で描かれる「永遠」とは、一言で言ってしまえば「子供らしさ」とか「普遍的な友情」だったりするのではないかと思うのですが、それを描きだすのに「奇跡的な出会い」とか「そこに生み出される掛け替えの無い関係性」だったり、「誰にでもあった子供の時代」に焦点を合わせるというより、それらがどれほど儚いもので、いかに簡単に失われてしまうかという点を重要視しているように思える。
 物語は、主人公青木新子(福田麻由子)と東京から来た転校生島津貴伊子(水沢奈子)との友情を中心に、1年にわたるの特別な時間を90分ちょっとに凝縮して描いており、春に始まり翌年の春に終わる物語(新子の家の周りにある畑の様子の移り変わりで季節を表現するのは上手い)は一生の思い出となるような出会いがあり、そして子供時代の終わりを告げるような出来事を経て、避けようの無い大きな変化を登場人物たちにもたらします。
 新子は空想好きなおじいちゃんッコで、どちらかというと空想や創作の世界(雑誌やラジオドラマ)を中心とした生活を送っており、多分田舎では相当の変わり者といえる。それに対して転校生の貴伊子は、母親の死と父親の転勤(それに伴う転校)という大きな出来事のために子供らしいを失っており、幼いながらやり場の無い思いを抱かえて、右も左もわからない田舎の片隅(新興の埋め立て地の社宅)で小さくなっている状態。本来なら交わることの無いこの二人が偶然出会い、そして通じ合ったしまうことから始まった物語は、新子のマイマイ(つむじ)の見せる1000年前の周防の国での孤独な少女の様子を交えながら展開していきます。
 映画の後半、新子を中心とした子供たちのコミュニティーが築き上げてきた「楽園」(ひと夏の奇跡のような空間)が、ほんの些細なことで崩壊し、子供たちを取り巻く大人たちの事情によっていとも簡単に失われていく様が丁寧に描かれます。それが如何にも自然でかつ現実的な状況なので、観客は「楽園」が終わってしまうことに寂しさを感じながらも、それが避け得ない事柄であると納得してしまう。(あっけらかんとはしているんだけど、それ故に後半は観ていて辛かったりする。)
 それでも、登場する子供たちは様々な現実の理不尽さに打ちのめされながらも、それをガッツリと飲み込んでは新しい何かをつかんでいく。
 父親との死別を経験しながら夜陰の田舎道で満面の笑顔をみせるタツヨシ。それによって子供であることに踏みとどまる新子。新子の特性を受け継ぎ「子供の意志」に目覚める貴伊子。彼女の頭の中で1000年前の周防の姫君諾子(森迫永依)は端女の少女との関係を築くという展開は、映画の中盤の鍵となる金魚の「ひづる」の死と再生という「魔法」の成就によって終幕する。
 何者にも縛られることの無い自由な感覚と感情を持っていることは子供時代の特権であり、それはいつでもどんな状況でも新しい「永遠」を作り出す力を持っている。辰吉と別れた後の新子は以前と同じように貴伊子を迎えにいくが、そこで観られる二人の関係は完全に変化している。貴伊子はより力強く子供らしくなっており、その額には確実に新子と同じマイマイが生えているように観える(1000年前を幻視することのできた貴伊子の額には立派なマイマイが生えていた)。それでも彼女たちは友だちのままであり、以前より多くの思いを共有することができる。
 それゆえに「楽園」の喪失という事件を経ても、子供たちはそれをすぐに過去に出来事として、新しい何かを紡いでいく。彼らは幼いながらも自分の意志でそれを生み出し歩んでいく。人間はいつも何かを失ってもしまうものだが、失ってもなおそれとほとんど同じ意味か、それ以上の何かを得ることができる、そんな希望が見え隠れしているように思える。
 そんな力強い姿があくまでも明るく描かれることで、観客はその決定的な終わりの果てに安らぎを感じることができるのだ。
 映画の最後、新子と貴伊子は別れを向え、別々の道を歩んでいくことになる。このエピローグは、一見して非常に寂しい最後にも観えるのだが、それとは正反対の余韻を残す。これはこの二人の関係がここで途絶えてしまっても、それで終わりではないことが観客に伝わるからで、人と人との関係は常に生み出され、そして新しい「永遠」が紡がれていく。別府に残る貴伊子も、新しい街へ行く新子もそれぞれが新たな場所でそれまでと変わらない「永遠」を手に入れることができると思えるからこそ、この映画を観た僕らはそれに心を打たれるのだと思う。
 エピローグの中に差し挟まれる1つのカット。崩れた土塀に座り草笛を吹く諾子と少女の姿は、1000年前の彼女たちも現代(映画内の時間で言えば昭和30年代)の少女たちと同じように友情を育み、現実を越えていく。それはいつかは終わってしまう関係であったとしても、時空を超え、そこに人間がいる限り引き継がれいく「永遠」なのだと思う。(そういや諾子のお父さんは永遠とも思える時間をいきる「松」に絡めた歌を詠んでますな。)
 これこそまさにエヴァ―・グリーンを体現した1本。性別や年代を超えて、僕らがこの映画に心打たれてしまうのは、そんな普遍的で前向きな思いを描いているからだと思う。だからこそ、まだこの映画を目にしていない人たちは、急いで劇場に駆けつけてほしい。多くの人が絶対に作品の内容に納得できるし、瑞々しく活きいきとしたキャラたちを愛してしまうだろう。(俺は今のところ出てきたキャラみんな好き!)
 たまたまでもこの文章を読んだ人は、騙されたと思ってぜひ劇場に行ってください、お願いします。(特にこれから上映が始まる地域の人は。)
 あと、片渕監督これからもPRガンバって下さい。(絶対にDVDかBlue-ray出たら買います。)
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