蘇る伊丹の系譜

 78本目、「おくりびと」。

 ノーマークだった日本映画。モントリオールで賞を穫ったということで、少しミーハーな気分で鑑賞。もともと本木雅弘という俳優さんは好きな俳優なので、久々にしっかりした役をやっている山崎努ともども、内容より俳優さん重視で観たんですが、これが非常にいい映画でした。(結局2回ほど観ることに。)
 でまず感じたのが、僕の世代なら必ずある監督のことを思い出すということ。そう「伊丹十三」という偉大な監督。この方はもう亡くなってしまったので、最近の若い子はその作品を見たことが無いという人も多いはず。でも、日本映画界にとって俳優出身のこの監督が及ぼした影響は計り知れないものがあると思います。
 内省的で観念的な内容の作品が大手を振っていて、テレビに娯楽の中心を奪われていた少し前の邦画界において、日常生活の中に普通にある出来事を題材に面白い映画を作ることができるということを、伊丹十三監督は自身の作品で証明してみせました。
 ただ、彼も晩年は作り出す作品がマンネリ化して、最初の頃の切れがなくなったいたのは間違いなく、キチンと復帰することなく不幸な結末を向かえてしまったことは非常に残念でした。彼の死後、その作風を継ぐような映画を撮る人は実はほとんどいなくて、周防正行が出てきた時、多くの映画好きが周防さんと伊丹さんを重ねたと思います。
 その周防監督も「Shall We Dance?」の一件で、長らくメガフォンを握ることがない状態でした(無事復帰してくれましたけど)。そのため「日常の中にある事柄」を「良質の娯楽」に転換するという種類の映画をストレートに作る演出家の系譜は途切れていたと思います。
 この映画はその途切れた系譜が無くなってしまった訳ではないことを改めて示してくれた作品でした。
  • 日本映画には珍しく「掴み」のシークエンスがある。それも下品になりすぎない程度の下ネタを絡めながら進むので、これから始まる物語がユーモアを含んだものだと理解できる。内容が内容だけに、そこからくる辛気くささや重苦しさを、映画が始まってものの5分で取り去ってしまう辺りが見事。
  • ひょんなことから失業することになる主人公小林大悟本木雅弘)のある意味悲惨な現状もスルッと飲み込める。でも、もらったタコ(生きてる!)を近所の川に捨てるのは止めた方がいいぞ!大悟の嫁(広末涼子)。
  • 失業(オーケストラのチェロ奏者)→夢を諦める(家が買えるようなチェロを手放す)→母親が残した実家(山形)へ引っ越し→新たな職探し→騙されるように就職(納棺師へ)の流れが見事。本当はもっといろいろと煩わしいことが現実にはあるがそこを感じさせない上で説得力のある展開にもっていくとこがいい。
  • 文句一つ言わずいつも主人公に寄り添う妻の美香、曰くありげな職業を飄々とこなす社長佐々木(山崎努)、そこで働く訳あり事務員上村(余貴美子)、田舎の風呂屋を一人で切り盛りする老女ツヤ子(吉行和子)、ツヤ子の息子で主人公の幼なじみ(杉本鉄太)、風呂屋の常連で謎の老人平田(笹野高史)など、主人公の周辺に配された脇役たちが嫌みなほど的確で、それでいてキチンとその役をこなしている。また仕事先で出会うことになるさまざまな人たちも、目立ち過ぎず、それでいてキャラが書き分けられ、それにあった有名無名の俳優が配されていることも無駄がなくよいと思いました。
  • やっぱりモッ君が主演していると周防監督の作品のような錯覚を憶える。他を圧倒するような演技をすると言う訳ではないのに、本木雅弘という俳優はその所作が美しく、本作でも儀式として行われる遺体への着付けシーンなどで、その性能の高さが遺憾なく発揮される。単に顔のいい(観た目のいい)俳優にはできない美しさを、体を使って表現できる数少ない存在だと思います。また40を過ぎているにも関わらず、鍛え上げられた肉体を披露する場面がいくつかあるのですが、この作品でも裸に情けない下履きという「シコふんじゃった」を彷彿とさせるシーンがあったのが可笑しかったです。
  • 自宅で仕事をすることができるWEBデザイナーをしている美香の存在が、社会的には追いつめられている主人公を支えることできるという非常に合理的な処理がよい。また少し綺麗(かわいい)けどよく見ると全体的には普通という妻の造形を、演じる広末涼子の仕事ぶりだけでなく、衣装やメイクといった面からもキチンと作っていたこともポイントが高い。
  • エロイよ、広末エロイよ。彼女を観てこんな風に感じたのは初めて。(キッチンF○○Kのシーンはぜひ本人がやっていたことにしてほしい。)
  • 男優陣ではモッ君に対する佐々木役の山崎努が圧倒的。特に「ものを食べる」シーンの凄さは一見の価値あり(河豚の白子のシーンは反則)。日常的に死と向き合う職業を生業とする男がその価値観の延長として「食べること」を重視する姿は、「生と死」を対比的に扱うことを得意としていた伊丹作品へのオマージュのようであり、伊丹作品で毎回重要な役をやっていた山崎氏が配されているのは、この作品がそれと繋がっていることの証拠のように感じました。
  • 万年脇役として知る人ぞ知る存在であった笹野高史さんですが、最近は売れてしまったせいか、何だか良くわからない役回りでも彼が使われていることがよくあります(一時の大杉蓮のよう)。でもやっぱり笹野さんの魅力はいるのかいないのか微妙な存在でありながら味があるという点だと思うので、本作の笹野高史の使い方は大変正しいと思いました。
  • あと終盤にかけて、山崎、笹野、吉行、杉本、余といった順にちょっとづつ見せ場となるし−ンが配されています。その辺の目配せ具合が見事。あざといという感想を持つ方もいると思いますが、こういう細かいこともしっかりやるのは「娯楽」では大事です。
  • 主人公たちが扱う遺体はそのほとんどが生きた俳優さんが死体を演じているものなんですが、その中で2ヶ所だけ本物そっくりに作られた遺体の人形が使われる場面があります。これは中盤で社長が納棺を行うある女性と最後に主人公が納棺するある人物なんですが、あきらかにここでは人形とわかるものが使われています。これは演出家(監督)が意識的にそれをチョイスした結果です。ここで人形を使う意図は、物体へと変容してしまった人間の肉体が納棺師の行う儀式を経ることで、生きていた頃の状態へと回帰する様を見せることを目的にしており、中盤の女性の場面ではいかに納棺師(社長)が素晴らしい腕を持った人物であるかを説得することになります。映画の終盤で主人公が行う納棺の儀式は、そうすることで主人公の中でぽっかりと抜け落ちていたある非常に重要な記憶が回帰し、その人物との和解が諮られたことが示されます。共通する意識や表現を的確な方法や手段で表現しているということで、この2つの場面はこの映画の中で非常に重要であり、映画の表現のお手本になると思いました。
  • 人生の岐路に立つ主人公、夫婦の愛、擬似的な家族関係を築くことになる職場、故郷への郷愁、故人と遺族の関係、親と子の関係性などいろいろな要素が綺麗に織り込まれ、それが仕事の上でも、プライベートな部分でも主人公の人生に大きな意味や試練になる。そして最後に自分を捨てた父親との和解と次の世代への意志の継承というオーソドックスなドラマが展開される。非常にお腹いっぱいになれる盛り沢山具合です。
 Yahooのレビューなんかを読んでいると(ヒット映画だけに書き込みも多め)、「これぞ日本映画の神髄」といった表現を使ってこの映画を評している人がまま観られます。確かの日本の葬送儀礼とそれに携わる人を描いているので、そういう風に言えなくはないと思いますが、僕は若干の違和感を感じました。人がどのように感じるかは千差万別なんですが、僕個人はこの映画を非常に「ハリウッド」的な作品だと感じました。
 この映画の脚本を書いた小山薫堂氏は、元々テレビやラジオで放送作家をしていた方とか。当然映画の世界でのキャリアはほとんどないんだけれど、実に良く「物語る」という作業を研究していると思います。
 上でも書いたような、展開の気持ち良さ、観ている人が違和感なくその職業やそれに関わる人たちを理解出来ること、職業や立場を抜きにして登場する人物の誰かに必ず感情移入できるなど、あらゆる点で多くの観客を巻き込める要素をバランスよく配置しています。この気持ち良さは、間違いなく「良くできたハリウッド映画」に顕著に観られるもので、それは日本と言う国で「娯楽」を提供する産業の先端として、日夜大量のコンテンツを生産し続けてきた世界の出身であるということに無関係ではないと思います。
 タイトルにも書いた伊丹十三と言う監督は、80年代からそれに果敢に挑戦してきた監督で、「ハリウッド」的な活劇が日本の日常の中でも可能なことを証明し、そのことが以降の邦画に大きな影響を与えたことは間違いないと思います。
 「納棺師」というネタ自体は、主演の本木雅弘さんが目を付けたものだということですが、特殊な職業とそれに従事する人を描く物語を作り上げたのは間違いなく脚本家の力であり、その脚本を伊丹十三以降の演出法でフィルムに焼き付けた監督滝田洋二郎氏、そして多彩な俳優人、それぞれ皆が何を作り上げるかについて非常に意識的であるからこそできあがった傑作だと思いました。
周防正行 DVD-BOX

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