日常を生きるということ

56本目、「ぐるりのこと。」

一組の夫婦の10年にわたる歩みを法廷画家である主人公佐藤カナオ(リリー・フランキー)が目にすることになる様々な事件との対比を通して描いていく。
 カナオは美大日本画を専攻しながら現在は靴修理のアルバイトで生計立てている。彼には同棲している彼女翔子(木村多江)がおり、最近結婚にこぎつけたことが映画の冒頭で語られる。 は誠実で甲斐性があるといったタイプではなく、結婚した現在でも仕事の傍らで女を口説いている。翔子もそのことは承知していて、カナオの女癖の悪さや自分の男運の悪さを嘆いている。しかし、彼女には一刻も早くカナオの子供を授かるという目標があり、翔子主導で積極的に夫婦関係を持つようにしている。
 細かな問題を抱かえていながらも相性のいい夫婦のリアルな生活を過不足無く描く映画の冒頭。このあたりの描写は秀逸で、長年連れ添った男女の間の生々しい光景がおもしろおかしく描れる。主演のリリー・フランキーは、主人公のいい加減さやかわいらしさ、男としての何ともいえない魅力を巧みに表現しており、彼の自然な(そう観える)演技で、一気の映画の世界に引き込まれる。カナオの役どころは映画全編を通して、決して感情を露にしたり、自己を主張したりする場面がないのだが、この男が何を考えているかが適切に伝わってくる。この辺りは演出家の腕もさることながら、リリーさん本人の何気ないながら、その(キャラの)本質を的確に表現する演技によるところが大きいと思いました。
 長らくフリーター同然の生活をしていたカナオは、先輩(木村祐一)の紹介でTV局の法廷画家の職を得る。一方翔子は小さいながら出版社に勤め、編集者として充実した日々を送っている。なんとか安定してきた生活、その上待望の子宝にも恵まれ、家族三人の幸せな家庭が築けるかと思った矢先、二人は子供を失う。(どうして子供を失ってしまったかの具体的な説明は無い。)
 子供を失ったことをきっかけに翔子は次第に精神のバランスを崩していく。大きな悲劇から立ち直るため、日常を取り戻すためと必死になればなるほど、彼女の中の違和感が増大していく。平静を装い、仕事に打ち込んでみても虚無感と罪悪感から逃げられない様が、丁寧に静かに積み重ねられていく。仕事場でのちょっとしたイザコザ、いつもと変わらないはずの自分の言動が周囲を傷つけたり、受け入れられなかったりすることからくるストレス。普通のこと(日常的なこと)に全く興味がわかないにも関わらず、いつもと同じようにあらねばならないというプレッシャー。
 次第に翔子は閉じこもり、精神を病んでいく。その過程が大げさでなく、じわじわと描かれる。何か精神的に大きな問題を抱えてしまった人間が如何に変質していくかを的確に描写していく。
 二人はどのようにこの困難を乗り越えていくのか。映画は後半に向かって、じっくりとその様子を描いていく。
 ここからは、気付いてことを中心に箇条書き。
  • 上映時間2時間30分と映画としては長い部類に入るのだが、なんせ10年(80年代の終わりから90年代の終わりまで)を描く映画なので、それなりにサクサクとは進んでいく。1年に1エピソード(ある季節を中心として2人の生活)という構成で、カレンダーと人のいない部屋(主人公たちの住んでいる部屋)を映すことで、時間が過ぎたこと、季節が移り変わったことが効果的に表現される。またここで登場するカレンダーが夫婦の崩壊と再生をさり気なく表現する小道具として使われている。
  • 佐藤翔子を演じる木村多江さんは映画の冒頭ではあまりぱっとしない。文系(美術系)の地味で硬い女といった風情なのだが、それが不思議なことに心の病で精神が研ぎすまされいく(追いつめられていく)過程でどんどん美しくなっていく。不謹慎言い方をすればキラキラと輝きだす。これは当然演じること自体にエネルギーと集中力を要するシュチュエーションのなかで、自然とにじみ出て来た役者として力が成せる技なのだろうが、演出家自体も「狂っていく人」の放つ何とも言えない儚さに満ちあふれた魅了を積極的に捕らえようとしているからでは無いかと考えてしまった。それ故に映画終盤の回復に向かう翔子の穏やかで充実した日々の様子がまた違った意味の美しさを帯びている。
  • 翔子の兄として不動産業を営む勝利(寺島進)、その妻雅子(安藤玉恵)、母親波子(倍賞美津子)、叔父の不動産屋(本田広太郎)等が登場するが、上品でいかにも文科系の翔子と対照的に、それぞれが生活感丸出しのキャラを熱演。特に寺島進のチンピラ感や安藤玉恵のヤンキー上がり→安い水商売の女感が絶妙。安藤玉恵は「百万円と苦虫女」でもほとんど同じ役をやっており、これからこの種の役は彼女が独り占めする可能性が高し(笑)。また他の作品では上品で都会的な女性を演じることの多い倍賞美津子が怪しげな民間療法で禄を食む老女をリアルに演じている。このあたりのキャステイングもよい。
  • 作中80年代の終わりから新世紀に到る10年の間に、実際の日本で起こった様々な事件を題材に、カナオの仕事ぶりが描かれる。この辺りは実際の法廷画家(報道)の世界を取材して構成した思われ、非常に説得力がある。特にベテラン記者(柄本明)やベテラン画家(寺田農)との交流が面白い。灰汁の強い役柄をさらっとこなす二人は見事。(あと、八嶋智人が役者をしているのを久しぶりに見た。)
  • しかしこの順調なカナオの様子が、一方で人には言えない苦悶の中で精神を病んでいく翔子との対比になっていて痛々しくもある。カナオ自体は妻の変化に気付いていないような鈍感な男ではないので、それなりに考えながら手探り状態で に接していることが丁寧に描かれる。普通に生活出来る人間がいかにそうでない人と付き合っていくか、どう接したらいいかのか、人間は上手く振る舞うことで、簡単に問題を解決できたりするわけでないはないのだということも描かれる。→しかし、カナオしっかりと翔子を抱きめることで困難を乗り越える。
  • 法廷で裁かれている事件は、非常に有名なものが多く、多少アレンジがされているとはいえ、ほとんどどの事件のことを言っているかがわかる。加瀬亮の演じるM被告をモデルにした幼女殺害犯とか、地下鉄サリン事件に連なるオウム信者の件、境遇の違いを逆恨みし、自ら子供の同級生を殺害した母親(片岡礼子が被疑者を特徴的に熱演)等、社会や人間関係について多くの人が何かを感じたり、考えたりせざるを得なかった数々の事件が登場する。それは法廷画家として当事者を目撃することになるカナオにも大きな影響を与え、彼が大人になることを手助けする。ただ、思ったほど効果的にストーリーに絡み付いてこないので、「当時の社会を風刺する」という以上の意味を保ちえていないのが残念。再現性で言えば、配役も豪華で映画としていいフックになっていますが、それ以上でも以下でもないのが惜しい。このあたりは橋口監督の演出家としての資質とも関連していて、ミニマムな関係性や個々の繋がりが生み出す出来事といった彼にとって比較的得意な要素のようには、これらの社会的事象を処理できていないと思いました。(このあたりは今は周訪監督などが抜群だと思います。)
 橋口亮輔監督といえば90年代に入って彗星のごとく登場し、当時はさして活気のあったわけでない日本映画界で、息のいい若手として活躍した人。ゲイであることカミングアウトし、さらにはゲイセクシャルの少年(青年)を主人公にした作品を発表、もともと自身のセクシャリティーが社会的にマイノリティーであることから始まる一連の作品は、そういった立ち位置以上に普遍的な部分を的確に描く作家として大きな評価を得たと記憶しています。
 でも、自分にとって橋口監督といえば、やはり前作「ハッシュ」であります。
 中絶経験があり、そのせいで精神的な傷を負った歯科技工師である主人公朝子(片岡礼子)が、一組のゲイのカップル栗田と長谷(田辺誠と高橋和也)と知り合い、その一人(栗田)に自分の生む子供の父親になってほしい(精子だけを提供してほしい)と頼んだことから起こる様々な出来事を通して「家族」とは何かを問い直した作品で、1組のゲイカップルと1人の女性との何とも言えない微妙な関係、主人公たちの背後や周囲にいる普通の人々との関係、「ゲイ」であることを原因とした家族との軋轢等、多くの要素が並べられており、それらの出来事を通して3人の男女がいろんなことを学び、新しい命がもたらされることで、当初バラバラだった彼らが「新しい家族」として踏み出していく様を描いた傑作です。
 ゲイというマイノリティの生態のみに特化した訳ではなく、現代社会の中で生きにくい事情を抱えてしまった個人がどのようにそれをサバイブしていくのか、また「家族」という人間の集まりがどのような意味を持っているかを真剣に問いかけた作品でした。
 そんなお話に沿った部分もいいのですが、僕は橋口監督が描く「女性」が、本当に上手いなあと感心してしまったのです。主人公朝子は端から見たら社会生活不適合者で、あらゆる意味でだらしなく、考え方や行動が突飛。また栗田の後輩の女子社員(つぐみ)は彼を勝手に好きなりストーカーと化したり、秋野暢子演じる栗田の兄嫁は、突然の夫(栗田の兄:光石研)の死をきっかけに、何代も続いた栗田家の家屋を売り払い、まるで何事も無かったように消えてしまいます。このことで、彼はそれまで当然のようにそこに存在していた「家」は永遠に失ってしまうのですが、嫁(外部から来た女性)として本家を守ってきた彼女が実は「家」や「家族」というものを一番信用していないことが暴かれます。(これは「家族」と言う概念の中で、女性がどんな位置づけをされ、それによってどのような心理状態にあるかを端的に表現しているエピソードでは無いでしょうか。)この他にも演じる長谷の母(冨士眞奈美)も一見ゲイに理解があるように見えて、残酷なこと簡単に口にするなど、女性特有にの常に現実的でドライな感性を的確に捕らえていると思いました。これは良くも悪くも「女性」に対して容赦のない描写です。
 物語の中の女性がいつも母性的であったり、男性に奉仕するだけの役回りを演じる必要はありません。じっくりと観察すれば、性的な意味での特色以上に、個々人の事情や性格が明確に浮き上がってくることは当然だと思います。そういう意味で彼の描く女性を、僕はスゴく「リアル」だと感じたのです。
 このように、男が女に抱いている一方的なイメージをことごとく打ち破った描写を重ねていきながら、それでいて人間としてキチンと描け、男では描くことができなかった女をフィルムに焼き付けている。その意味で「ハッシュ」もまた非常に優れた女性映画ではないか思ったのです。
 僕が読んだある個人の映画評で、「出てくる女が皆気違いばかりだ」と評されていましたが、これは監督が幻想を配した女性像を描いているということ裏腹なことで、ゲイセクシャルであるということでフラットな視線で女性を捕らえていることに成功している証拠だと思いました。
 この映画で試されたことは今作でもしっかり生かされており、翔子やその母、彼女の兄嫁など灰汁の強いキャラが見事に映画を回していきます。反面男性キャラは女性に比べて静かで客観的な立ち位置の人が多い。「Hush」を経ることで、ゲイという自分の描ける(得意とする)事象を描くだけでなく、自らの立脚する位置(足場)を基準として「人間」を描くことが、映画を撮ること、物語を語ることであるという境地に至った結果として今作があったのではないかと感じました。(生意気な意見ですね)
 前作からかなり長い間映画を撮っていなかった理由が、監督自身が鬱を患っていたからだと知って少し驚きましたが、それでも大変な時期を乗り越えて、なおこんな素晴らしい作品を作った樋口監督に感謝したいと思います。
 あと、Akeboshiによる主題歌「Peruna」が非常にグッとくる(劇中での使い方も)。みなさんぜひ聞いてください。
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