あの肉の薫りをもう一度。

 11本目、自分の中で宿題と化した「レンブラントの夜警」。

 簡単に言ってしまうと、かつてのグリーナウェイはもういないという寂しさが漂う作品。
 一見してよい意味でも悪い意味でも、「枯れて」しまっている。
 前回見たのが「ベイビー・オブ・マコン」(以下略して「ベイビー」)なので、20年近く前になる。この間日本でも 2本の新作が公開されているが、内容・評価共に芳しくないこともあって観ににいってない。
 グリーナウェイといえば、代表作は上記の「ベイビー」と「コックと泥棒、その妻と愛人」(以下略して「コック」)であろう。
 日本で彼の作品が大々的に公開されたのは「コック」公開時で、当時日本ではほとんど名前の知られていないイギリス人 の撮った映画に、そこそこ人が入っていたことが印象的であったが、やはりストーリーが非常にエグい展開で、当時の映画好きの射幸心を大いに煽った宣伝が功を奏したためであろう。 (肝心のお話については、実際に映画を見てください。)


 彼の映画の特徴は、シンメトリックで絵画的な画面構成と横移動を基本としたカメラワーク。セットを真正面から撮影し、俳優を含め、舞台を左右対称に作り上げる。(ロケーションの場合も同様。)
 精密の作りこまれたセットの中で、登場人物に芝居をさせるため、奥行きを演出したり、動きのある画面を作ることが難しくなるので、横移動(スクロール)を用いることでパノラマ的に画面を展開させ、人物の距離的な移動、場面転換(物語の展開)、世界の広がり(構築的であるが故に閉塞感が付きまとい、画面的にも狭く息苦しい状況を回避するため。)を表現する。スタイルとして、表現に約束事を課すことで、独特の世界観を作り出している。
 しかし、グリナーウェイの真骨頂はこのようなきれいに整理された端正な画面にあるのではない。
 その構築的で無機質な画面の中で展開される生々しく、おぞましい人間の「性」を描いている部分が大切なのだ。
 直接的なセックスが描かれるのはもちろんのこと、それに伴う暴力、騙し、欺瞞、性的サディズム、レイプなどなど。人間の営みの中で、時折顔を覗かせる負の側面が、映画全体を彩る。当然のことながら、これらの要素は、最後には「死」へと結びつき、主人公やその関係者 が非業の最期を遂げる。また同時にその「死」が、本当の意味で不幸なことなのかわからないという価値の転換が付け足されていたりする。(初期作の「ZOO」などは、表現という意味では彼の真骨頂といえる。)
 死に至る過程がねっとりとした質感で描かれるが、見つめる画面はさっぱりとした面持ちというギャップが独特なのだ。

 で、今回の作品なんだけど、これがもう前半がかなり退屈。柄でもなく普通の夫婦愛が基本になっていて、レンブラントマーティン・フリーマン)自身 もアーティストというより、洞察力に優れた職人という風情。(冒頭こそ暴徒に襲われ、丸裸にされ、目をつぶされる様を熱演しているが。)
 「夜警」を描いたことで、その裏側にある自警団内の権力を廻る陰謀を暴いてしまい(このへんは自覚的行動)、そのことが彼を破滅へと追いこんでいくんだけど、 お話が転がり始めるまでがしんどい。
 「ベイビー」の時点ではすでに完成していた絵画的・演劇的画面作りも、舞台を正面から写しただけとしか見えず、光(ライト)を多様した演出もあまり効果的ではない。
 予算はそこそこあるせいか、野外(ロケーション)シーンでは多くのエキストラが当時の衣装に身を包み、画面中を動き回っているのだが、引いた画が多く、緊迫感を下げている。(ドラマが盛り上がらない。)
 あいまに、孤児院の少女とのエピソードが挟まり、孤児ゆえに大人の慰み者にされる(「ベイビー」のテーマと共通する)彼女を通して、当時のある階層の人々の欺瞞を告発したりもするけど、 切迫感がない。結局彼女は、養父の子を出産するも、それが原因で自殺する。
 後半大切な奥さんが産後のひだちの悪さで死んでしまうと、乳母として雇われていた奥さんの召使とできてしまうのだが、ココにきてようやく若干アブノーマルなセックスがでてくるが、ほんの少しだけ。 (ここまでのレンブラントは、それなりにモテたりするにのだが、奥さん一筋の人。)
 哀れ、聡明なるレンブラントは陰謀を画策した自警団のメンバーに襲われ、冒頭の夢同様に、裸に剥かれた上に、目をつぶされてしまう。
 しかし、破滅した彼の元には心から彼を愛した召使ヘンドリッケ(エイミー・ホームズ)が残るという筋書き。(彼女は物語を通して、彼を支え続けている。)

 実際のレンブラントが経済的にも、画家としても没落していく原因については諸説あるようなんだけど、映画の展開はレンブラント好きを自称するグリーナウェイの完全な脳内妄想。有る程度の考証はなされているようであるが、この物語がどのような立ち位置のものであるかは、終盤ある登場人物の口から語られる。
 もともとミステリーをベースにしたお話を撮ってきた人なので、お話としてはこんなもんかとは思う。しかし、一番残念なのは、かつてあったような匂いたつようなもの(本当に画面の向うから腐臭が漂うな剣呑な空気) が本当に皆無であったこと。僕個人が求めていた人間としての破綻や暴力、目を背けたくなるような背徳がほとんど出てこない。
 「コック」を見たときのような映画館全体がギョッとするような瞬間(ラスト)は全然ない。「ベイビー」で見られたような絶対的な暴力は存在しない。
 映画冒頭から、ずっと頭に浮かんでいたが正統派の映画として撮られた「プロスペローの本」で、これが一番感じが近い。(でもこちらのほうがはるかにエグい表現がある。)
 まあ、人間年を取ると丸くなるものなので、仕方がないとはいえ、もっとできる、もっとスゴイことしていたはずだと何回思ったことか。 あと、決定的なのがマイケル・ナイマンの不在。何となくスカスカしてしまう。(最近では、「スウィーニー・トッド」で見られた現象。)
 文芸映画と勘違いして来ていた良心的な中高年の客を後悔のどん底に落すような作品で、圧倒してほしかったなあ。(この程度でも十分引いていた客はいた。)
 不満の残る鑑賞後の気分をつらつらと書いてみました。 クリーナウェイさん、生意気言って申し訳ありません。

[rakuten:mammoth-video:10002900:detail]