「ザ・バンク 堕ちた巨像」

 探れば探るほど世界中みんな「グル」でしたという絶望感を提示する本作ですが、公開数日後の今日現在(4月7日)の時点で、ネット上の感想は賛否両論といったところ。(なんとなくわからないでもない。)
 本作は、主人公がインターポールの捜査官(警察系)であるという点を覗けば、007(諜報系)に連なる国際スパイものの1本として観るのが正しい。世界の影の部分で暗躍する「悪」を追いつめ、不正を糾し、世界を救うというフォーマットは映画や小説ではお馴染みのネタ。僕自身はappleのトレイラーサイトで最初に予告編を観た時から「ひょっとしたらこれは007のあるべき姿かも」と密かな期待を寄せていたので、本編観賞後の感想としては「まさに観たかった映画」という感じでした。
 以前のエントリーで取り上げた時にも少し書いたんですが、007の新しいシリーズはダニエル・クレイグという非常に身体感溢れる俳優を得ることで、「カジノ・ロワイヤル」以降見事に復活を果たしたと思う。それには当然「ボーン」シリーズという良き前例があったことが少なからず影響しているのですが、結果としてクリア出来ていない部分があったことは多くの人が認めるところだと思います。
 それはボンドが対抗すべき「敵」の存在です。「007/慰めの報酬」ではポール・ハギスは相当がんばって、グローバル化された世界における「巨悪」とは何かをそれなりに描いてみせたのですが、結局それは組織の末端にいる個人の存在を浮き彫りにしただけで、ボンド自身がなぜ彼らと対決しなくてはならないのかという点については「私怨」以上のものを提示していません。それはそれでかまわないとも言えるのですが、「復讐」は動機にしかなり得ず、世界と向き合うための「覚悟」を生み出してくれませんし、チッポケな感情は早く捨てて、プロに徹しようでは「個」の内面に還元されるだけです。
 「ボーン」シリーズのように、兵器化された個人が自身のアイデンティティを回復するという筋立てであればそうであってもかまわないのですが、何しろあのシリーズは対峙する「悪」を自らを生み出した父親(劇中ではアルバート・フィニーが演じている)にすることで、通過儀礼としての旅と自我の確立の暗喩である「親殺し」の物語を通して、自立した「個」を確立する面に重きが置かれており、どちらかというと従来型のスパイもの脱構築が最終目的だったと思います。
 007のシリーズではそのようなお話はできないので、現代の「悪」についての新たな解釈を提示をする必要があるのですが、今現代の世界構造を垣間見せるに留まっており、それを打ち破る上でのどんな「正義」が存在しえるかについては保留されたままです。その上ボンド個人が復讐すべき対象であるMr.ホワイトが温存されてしまったので、次回作も個人的な復讐をメインにお話を回していくことが可能であり、世界を裏で支配しているクワンタムについても、組織のトップに君臨する大ボスを設定すれば、従来型の善と悪との対立構造をそのまま維持することも可能です。でもそれでは面白くない。

 経済が国家と言う概念を越え存在し、資本を背景とした他国への介入を西側先進国が何のてらいもなく行う現在の世界では、体制に属する人間がその外側に存在する「悪」と闘うという構造そのものが成り立たなくなっています。本作で描かれる金融という「新しい悪」は、世界の外に存在し、既存の秩序を打ち破って世界を支配したいという目的を持っているわけではなく、むしろ現在の社会構造を完全に維持しながら、グレイな部分を走り抜け、利益を最大化することを目的とし、結果としてより大きな枠組みを支配しようとします。こうなると彼らの行う悪事は、実は国家(警察や軍隊)という存在が、ある思想的な枠組みを用いて体制を維持することとほとんど同義であり、彼らの「悪」を暴き、それを打ち破るものことが、(結果としていかに「正しい」ことをしていても、)世界の破壊者になりかねないという逆転が起こってしまうのです。
 この厄介な状況は、「悪」を成す者が特定の個人でなく、「組織」ないしは「システム」であることに起因しているからだと思います。ある目的を達成するために徹底的に合理的であること、迅速で機能的であることは個の能力に依存しないだけに堅牢であり、スムーズで自動的に機能していきます。「邪魔者は消す」という対処法が最も合理的な対策であれば、それはすかさず実行され、その違法性を覆い隠すためにあらゆる仕組みが国境越え働きます。そうすることは関係のあるあらゆる人々(組織)の幸福の最大化に寄与します。

 本作をつまらないとか、脚本の詰めが甘いという感想を持たれた方は、何だか現実の向こう側にある陰謀が暴かれて、それを主人公たちが糾していくような展開を期待していた模様ですが、この映画の脚本は最初からそこへは向うことを目的としていないように思えます。
 主人公サリンジャー(クライブ・オーウェン)はロンドン警視庁時代から国際的なメガバンクIBBCの不正を追っかけている訳ですが、映画の冒頭でIBBCが違法な行為に手を染めている企業だと言う情報が提示され、それ以上のことは描かれません。(武器の不正取引であることはベルリン連邦警察内で説明済み。)それは、IBBCの不正がどんなものであるのかは、ストーリーの流れの上あまり重要では無いからです。これは、現代において立ち向かうべき「悪」が何であるかをといった場合、隠された真相や陰謀などは最初から存在せず、「どんな悪いことをしているか」では無く、「いかに悪いことしているか」を描くことが重要なのだということです。
 ですから、サリンジャーたちが行う捜査は非常に地味です。はなから隠された真実などを暴きたいわけではないので、とりあえず不正を告発するために小さな事実を証言してくれる人を確保することに奔走します。(それゆえ謎解きのようなカタルシスはありません。)しかしこの捜査法は、敵対するIBBCからの実力行使でいつも失敗に追い込まれる。そこで目を付けたのが実行犯の確保と言うことで、舞台をアメリカに移し、一人の男をめぐる追跡劇が静かに展開されます。
 インサイダーを確保し、それを起点にして内部の不正を暴くというインターポール側の方針に対して、その対象を素早く始末することで対応するIBBC。
 トカゲを捕まえようとした時、トカゲは自らを守るために尻尾を切り離します。映画の中盤以降はこれが繰り返されるのですが、その展開を観ていると「悪」の中心がどこにあるのかわからなくなります。組織のどうような階層に属していても「一味」である限りはその存在が保持されますが、外部からの介入してくる存在(この映画本編ではサリンジャーやエラといった捜査関係者)によって、その意味が特定されてしまうと、たちまち彼らはシステムにおけるバグのような存在へと変化してしまいます。
 グッゲンハイム美術館サリンジャーと共闘することになるコンサルタント(ブライアン・F・オバーン)や彼を使っている裏方の親玉であるウィクスラー大佐(アーミン・ミューラー=スタール)は、システムの末端に存在するものとして、そのことを常に肌で感じています。ウィクスラーがサリンジャーに協力して頭取のスカルセン(ウルリッヒトマソン)を嵌めることに迷いがないように見えるのは、どちらにしろ自分が引き返せない場所にいることを自覚しながら生きている(劇中ではある種の諦めとして自身が告白することになる。)ことの示唆であると思いました。
 また映画のクライマックスで命を落とすことになるIBBCの頭取は、追いつめられた状況でサリンジャーにこう語りかけます。「俺を殺しても代わりはいくらでもいる。」
 このイスタンブールでのやり取りは、彼自身がこの瞬間に切り離される尻尾に変わってしまったことを明示していて、彼自身も結局はシステムの中の駒の1つにか過ぎないことを示しています。頭取という駒を演じる彼は、最も効率的にかつ最大限の利益を上げるよう合理的に行動しているのですが、彼個人の倫理観に基づく葛藤は描かれることはありません。会社を離れれば一人の家庭人として息子相手の囲碁をさす彼の姿は、彼自身が所謂「悪の黒幕」ではないことを暗示しています。自宅で息子の相手をする彼は、PCの画面を通して幹部たちと話し合った上で、息子と共に結論を出したりします。その話の内容がいかにキナ臭いものであっても、システムの内側にいる限り、個人が葛藤することはありません。自我を捨て去って機能するだけの存在はそれなりの富や安寧を手にすることができますが、外部からの介入によって「システム」の構築した秩序が崩れかけた時、その存在の意味がいとも簡単に変質し、「システム」を維持するという最もシンプルな理由のために個人としての技量や能力に関係なく、いずれかのタイミングで始末されるという悲劇が待ち受けています。(ミサイル誘導装置の取引は成立しているのですから、彼は職務を遂行するという意味で失敗しているわけではないのです。エンドロールに登場する新聞記事がその後のIBBCの混乱→躍進を暗示しています。)
 映画の中で「会社」と言う形で表現される存在は、頭だと思って捉えた瞬間にその部分が尻尾に姿を変えるのですから、そんな異形の生物を素手で捉えるようなことはほとんど不可能です。

 最終的それまでの自身を支えていた秩序を捨て、新たな1歩を踏み出したサリンジャーですが、またしても最後の最後に「悪」の中心を逃がしてしまう。それは結局は「トカゲの尻尾切り」の協力しているという状況もそうですが、実際にも横から(後ろから)獲物を奪われてしまいます。己が選択して行動した結果が自身に返ってきたようなこのオチは非常に皮肉なもので、観るものに苦い感情を残すと共に、多くの人にとっては宙づりのまま放置されたような不安感を与えるのではないでしょうか。
 それほどまでに現実の世界は、強固で必要な「悪」に充ち満ちている。それでも「正義」をなすとはどういうことだろうか、そんな疑問を抱かえたまま、いつものとおりクライブ・オーウェンの苦渋の表情で映画は終わっていきます。
 あと、思ったことをもう少しつらつらと。

  • 映画の中盤、核心に最も近い人物として登場するイタリアの武器商人ウンベルト・カルヴィーニが、サリンジャーとエラ(ナオミ・ワッツ)にIBBCの正体を語ります。「銀行業の本質は、戦争やクーデターといった暴力を支配することではない。借金を支配することだ。」この辺りは、政治が経済という要素を抜きにしては語れない現在の状況を上手く説明していると思います。それに対するサリンジャーの「正義」はどことなく抽象的で古くさくもある。善悪という観念でなく、純粋に利益を追求することのみを行う「悪」の意味とは何であろうかという疑問に対して、この時点でサリンジャーはその答えを持ちません。ここで面白いのはカルヴィーニが捜査に協力するにした動機が、非常に個人的な感情に基づいている点だと思います。(このことはオチにも大きな関連がある。)
  • 終盤のサリンジャーについてちょっとした妄想。いろいろなことを経験して己の限界を悟った彼は、結論としてロールシャッハになろうとしてそれまでの立場を捨てるのですが、結局は盗聴することぐらいしかできず(それも失敗)、既存のルールの枠組みを捨て去ることができません。オチで鳶に油揚げを攫われたような状況の彼は、最後までナイトオウル的な存在に過ぎません。(どんなに積極的に行動しようとも大きな変化をもたらすことができない。)もうこうなったら南極のオジマンディアスに相談しにいくか、宇宙の彼方に行っちゃった青い振りチンの人を捜すしかないのでは思いました。(それはそれで人類にとっては絶望的な結論になること間違いなしか。)非常に対照的な題材と表現法をとりながら、同じ日に観た「ウォッチメン」とこの作品は多くの点で共通している部分があると思います。(公開時期が近いのも偶然としては面白い。)
  • 今回鍵となるIBBC側の暗殺者コンサルタントは、その存在を完全に消す必要があるという意味で匿名性が重要視される役なのですが、それとはっきりわかる身体的な特徴を有していたり、仕事の依頼を各国美術館で行ったりします。さらに決まったスポーツジムに通うなど、パターン化された行動様式を持っているあたりが、古典的なスパイもの・暗殺者ものに対する目配せが利いていたと思います。演じるブライアン・F・オバーンも非常に印象深い暗殺者を好演。ニューヨーク市警の刑事を含め、地味で普通の役どころのキャストも堅実で良かったと思います。(カルヴィーニの二人の息子が何気に伊達男なのがいい。)
  • ナオミ・ワッツの分量が少ないとご不満の方が多いようですが、齢40歳を越えた女優をあんなにも魅力的に撮れるティクヴァはエラい。アップのシーンが多いのに彼女特有の枯れた色気が画面から伝わってきて良かったです。安易な色恋沙汰が入り込まないのもハードさを補完していて良し。
  • やはりグッゲンハイム美術館は外せないシーンでありますが、その他にも良いシーンが多い。好きなのは顧問弁護士のホワイトさんがカルヴィーニファミリーの会社(事務所)から這々の態で追い出された後、アウディと共に消えるシーン。トンネルに入って出てこない様子を静かに捉えた空撮シーンを観た時は、心の中でウォーっと叫んでしまいました。(イタリアンマフィア最強!!)
  • ヨーロッパを中心にバシッと決まる構図の画も素敵です。現代建築の美味しい所を随所の押さえたロケーションは見物で、特にIBBCの本社とカルヴィーニの本社は非常に対照的な様式ながら、観て満足な建物だったと思います。(特にカルヴィーニは完全に秘密基地。)
  • ニューヨークの保釈保証屋の地下室で対峙するサリンジャーとウェクスラー大佐。世界の裏側を覗き見るとその先には必ずアーミン・ミューラー=スタールがいるといったよいほど、最近はそういう役ばかり(笑)。現実の複雑さ、奇怪さを重厚なスタールの台詞回しに載せて語るこのシーンは、表質された「悪」に対する「正義」は何を行うべきか提示する素晴らしいシーンだったと思います。
 非常に示唆的な内容の良い作品です。007の次回作の脚本家はまたまた少しハードルが上がったので大変だとは思いますが。公開も始まったばかりなので、ぜひお近くの劇場で鑑賞することをお薦めします。個人的には伊藤計劃先生の感想を聞いてみたかった、そんな傑作だと思います。
ボーン・アルティメイタム [DVD]

ボーン・アルティメイタム [DVD]