運命と身体への回帰

 81本目、「ウォンテッド」。


 これから順番が少し前後しますが、書き上げた分から先にあげていきます。
 まずid:Dirk_Digglerさん、トラバありがとうございました。
 ということで、カート・ウィマー絡みのことは、この前の日記にも書いたので、それ以外に思ったことを少し羅列してみたいと思います。少し長いかもしれませんがおつきあいのほどを。




  • まあ、冒頭からクドい表現が多い映画なんですが、それが気持ちいい感覚を伴うところまで昇華されているのがいいと思いました。「ナイトウォッチ」の時に感じたうっとしさや回りくどい部分がきれいに無くなっているんですが、公開前に読んだ情報によるとハリウッドの凄腕編集マンが付いてキッチリ編集というようなことが書いてあったですが、それでも溢れ出てくるマクマンベトフ汁(この辺はid:Dirk_Diggleさんのページに書かれている作家性の発露たる「単一のモチーフ」が特徴的ですね)が、この作品をその他のアクション映画(アメコミ映画)との違いとなって現れていると思います。
  • だから「マトリックス」以降発明された様々な表現(CGも含めてね)が画面の中に踊っていても、単にパクっただけの映画と違って不快さが全然ないし、ウィマーの過去の作品に傾倒しているような場面が出てきても、それを咀嚼した上で己の血肉にして上で吐き出していて、オリジナルな表現を観ている感覚が既視感を通り越して強烈な「快」の感覚を刺激してくれると思います。
  • また、Yahooのレビューなんか読んでると「ツッコミどころ満載」とか「ありえねー」的な言葉を多く観るんですが、「ウォンテッド」みたいな映画には今後御法度と言うことで。なぜなら、この種の映画ではフィルムの中に映し出される「現実」の中に、いかにして非現実的な価値や事象を違和感無く押し込むかということが重要になるからです。「現実」をベースにした事象との差異を批判したり、ツッコミを入れたって無駄なのです。ジョリー姉とマカヴォイ君の乗る赤いスポーツカーがくるくる反転し、バスを横倒しにしながらサツをまくシーンを見せられれば、これから展開される映画の世界かどんなものかはほとんど想像できるし、特殊能力をだと説明を受けたとはいえ、銃も撃ったことがないような青年がハエの羽根を打ち抜くことが可能だという事態を見せつけられれば、半年ぐらいで1流の殺し屋になるぐらいの突然さは映画の快楽として許容されるべきだと思います。
  • ダークナイト」では、コミックの世界観と現実の事象との境をいかに「映画」という手法で曖昧にするかと言うことへの挑戦であったと思います。でも、こういった行為は結構難しいので、何年かに1度ぐらいの極めて珍しい事象として世に出ることがあるぐらいです。多くのアクション映画は上で書いたような「非現実」を「現実」にいかに挿入するかがほとんどですから(フィクションってほとんどがこういうことだと思う)、「ウォンテッド」と「ダークナイト」は比べてもあまり意味が無いと思います。つまりどちらも面白い作品だし、その面白さは全く違う種類のものだからです。
  • しかし、指摘しておかなくてはならないのは、ノーランが「ダークナイト」でとったような手法は理論的で説明的なことに修練してしまい、「快楽」の部分を押さえ込んでしまうことがあります。あと、レーティングの関係で血が出たり、直接的な暴力描写をキレイに回避している「ダークナイト」は、それはそれでよく考えられた作品でしたが、何かに気兼ねすること無く(当然この作品もレーテンィグは気にしているでしょうが)「血がでる」、「体が切られる」、「主人公がぼこぼこにされる」などの行為を暴力的に・直接的にを描くことが、最近のハリウッドでは少なくなってしまった一種の「身体性の回復」を意味していると思いました。(偶然かな)、   
  • っていうか、ハリウッドでねずみ(ドブネズミだけど)爆弾をやっただけで、「参りました」と頭下げてもいいです。
  • 最後に、僕はこの映画を「バカ映画」だとは思いませんでした。(最近この種の表現もインフレぎみだとおもうなぁ)なぜならフラタニティの「修理屋」さんは主人公ウエスリーを延々とボコリますが(ジョリー姉もメリケンサックでボッコボッコ)、これは自身の肉体が破壊されることに対する心理的な枷を破壊することが目的で、鼻が折れようが、アゴが砕かれようが、状況を脱して相手に反撃出来るような精神性を獲得することを目的した訓練ということで、以外と理にかなっていると思いました。(回復風呂があるから肉体的には完全に回復するしね。)
  • また織物機(神の意志)がつぐむ暗殺指令によって影から人類を守っているという倒錯的な世界観は、まるでカルト宗教のようですが、人間が「見えざるものの意志」に導かれ、成すべきことを成し、世界は回っているというあたりが「ナイトウォッチ」シリーズにも通じており、「運命(使命)」と「意思」によって未来を築くという非ハリウッド的なテイストが異彩を放っていると思いました。パンフレットの監督インタビューを読むと、「ナイトウォッチ」3部作の3本目として作ったという様なことを発言しているので、原作からの改変部分の多さも含めて、マクマンベトフ監督の描きたいテーマが如実に表れていると思いました。それゆえにフラタニティは自壊すべき運命であったことは皮肉と言えるでしょう。

ということで、いろいろ言いましたが、「ダークナイト」とは全く違った面白さに貫かれた作品です。CGがふんだんに使われている映画ですが、アクションの根底にきちんとした「身体性」が存在しているので、CGばかりで絵空事しかない他の映画には無い「熱」が感じられます。表現に関わる技法は豊かになっても、それを使って何を描くかが規制されたり、おざなりになっていないことがこの映画の力だと思いました。
 もうアメコミ原作であるという枠組みは無くなっているも同然ですが、それはそれでハリウッドアクションの行くべき地平を示してしまっているので、こういうジャンルが好きな方も娯楽映画好きな人も、ぜひ観ていただきたいという1本です。