露悪もいいけど、基本をね!

 29本目、「タクシデルミア ある剥製師の遺言」。

 どうやらハンガリー製の映画らしいぐらいのあまり事前情報のない状態で鑑賞。チ○コから火を噴くことで一部で話題になっていたようだけど、それ以上ことはわからないまま、まあ剥製師の話ねぐらいの気持ちで観たのだが、これがスゴく微妙。
 冒頭から、全裸にロウソクで一人SMプレイ→火を噴くチ○コと少し期待させるも、後は映画的にダメなところ、表現的にダメなところのオンパレードで、露悪的なことをやりたいのいいけど、風刺や美学のようなものが欠如した状態で、考え抜いた上で頭から捻りだされただけの醜悪さを並べられも何も感じることができず。
 たとえば東欧といえば、ヤン・シュワンクマイエルのような巨匠を有する変態文化圏でありながら、この監督パルーフィ・ジョルジはそこいら辺がまったくわかっていない(コンビを組んでる脚本家も)。とにかく極端なことを並べているだけで、意味としてのつながりや表象として連続性もない。
 最初の主人公、口の割れた軍人の下男モロジュゴバーニ・ヴェンデル(ツェネ・チャバ)が、その絶倫さゆえに豚肉相手にオナニーしたって、軍人の奥さんが妊娠することはない。そこはちゃんと裏で肉体関係があったことを示さないと行けないし(まあ示してはいるんだけど)、そうすれば最初の主人公が虐げられながらも軍人の家にいる理由が成り立つ。
 そして、妻と下男の情事をしった軍人が彼を射殺する明確な理由にもなる。(貯蔵用の豚肉を精液で台無しにされたのが殺人の理由では不条理ではあっても、やりすぎ。)
 また2番目の主人公カールマーン(トローチャーニ・ゲルゲイ)が、生まれ付いてブタの性を持っているというのも(本当の父親と母親がブタの上でセックスしたからか?)、彼が成長したら大食いファイターってオチじゃ、何の捻りも無い。モノの無い共産圏で、大食いがスポーツ化されているというのは、皮肉として出来がいいほうではあるが、それ以上のアイデアが無い。
 キューバからきた女大食いファイター、アッツェール・ギゼラ(シュタンツェル・アデール)との恋については、編集がメタメタで前後がつながらない部分が多数。互いに惹かれあっているのか、ただの尻軽女なのかわからないし、だいちカールマーンが本当をギゼラを好きなのか全然伝わらない。
 このあたりは映画全体を占める割合が多いだけに、凡庸でも基本に忠実に作らないと話が回らない。それにしても、この監督は大食いやフリークスにまったく愛情が無いので、観ていてつらいだけで面白くならない。
 最悪なのが最後の主人公バラトニ・ラヨシュ(マルク・ビシュショフ)のパートで、カールマーンの息子である彼は、親には似ずに、痩せで神経質。選んだ職業が剥製師(やっと登場)で、親父からは侮蔑されている。
 決して良好ではない親子関係ながら、父を慕うラヨシュは毎日父親の面倒を見るために彼の元に通うが、過去の栄光に酔い、自らの元を去った妻に恨み言を言い放つ毎日。時にはその矛先がラヨシュに向くこともある。我慢を続ける彼だが、ある日とうとうキレて父親の飼っている猫(父親同様に以上にデカイ、多分合成処理なので、わざと)を放ち、部屋を去る。しかしそのことがとんでもない事態を招くことに。
 ネタを明かせば、父親はネコに食うわれて死んでしまう(全体じゃなくて一部ね)。でもたぶん飼い猫は飼い主を食ったりしない(ネコとしては憤まんものだ)。それにお腹を少しかじられたくらいで人間は死なない。それからがさらに最悪。
 自分で父親を死にいたらしめるようなことをしておきながら、翌日には何事も無かったように父を尋ね、親父が死んだからってそれを剥製にしたりと、主人公の行動がつながらないことはなはだしい。
 さらに世界に絶望したから、自殺しながら自分を剥製化するという捻りをきかせた展開に持っていくが、これも画的な説得力が無いので、オペ中(剥製になるために自分で自分の内蔵を抜く)は気持ち悪い映像でごまかせても、だんだんありえないという気持ちで心がいっぱいになってくる。だって彼がそうしなければならない理由(切迫感)がまるで描けていないから、ああそうですかとしか思えない。
 大体摘出した心臓を腕に直結しても、腕は動かないし、頭が生きていけないはずなのに、そんな事は無視ではねえ。
 どうしてこんなに半端なんだろう。もし剥製化したいなら、自分を自分でバラすなんて絵空事をじゃなくて、手塚治虫トレント・レズナーみたいに全自動人体解体マシーンみたいなのにすればいいのに。アイデアが貧困だし、できないことをできないこととして描いても意味が無いように思える。
 露悪的なことだけに酔ってみても、描くべきことが無い映画は空疎だ。ほら気持ち悪いでしょと差し出されたものは、本当に気持ち悪いだけなのだ。
 喜劇やギャグについて考えてみるといいだろう。前提として普通とは何かということが描かれなくては、笑いは起こらない。高度な笑いは、日常とのズレから生み出されることが多い。このことから考えれば、この映画に登場する3人の主人公は、みな普通の人でなくてはならなかったのだ。しかし、最初から主人公が異常な容姿や性格をしていては観客はそれについていけない。
 反対に異常な人物を主人公にしていても、その中に普通の人々が理解できる何かが描ければ、映画は別の意味を持てる。それ無くして何かを描いた気になっていても、語るべき何もそこには無いのだ。

 あと少し。非常に奇妙なことなんですが、僕にとってこの映画は今年3本目の「ブタ解体シーン」がある映画。なんかの因縁でしょうか。(何か最近動物をバラすことに詳しくなっていなあ。)