結果報告(6月28日)

 続きっす。題して「朝までアニメ映画」。
 名古屋の伏見にあるミリオン座という映画館で行われた月イチのオールナイト上映会、お客さんもそれなりの人数で、劇場内もそれなりの盛り上がり。3つあるスクリーンのうち、一番大きな箱でオールナイト上映会。二番目の大きさの箱で「破」の上映をやっていたこともあり、一晩中映画館の中にお客が絶えない感じで、夜中に若いお相撲取りの人が二人ずれで「ヱヴァ」を観にきていたのが面白かった。(そういえば名古屋場所が近いということか?)
 で、今回参加したオールナイトのラインナップはこんな感じ。 1本目は当然「破」の予習のため。
 2年前公開当日に観て以来、今回で2度目の鑑賞となるんですが、感想はそれなり以上でも以下でもないといった感じ。
 まずはじめにお断りしておきますが、僕は基本的にTVシリーズを含めて「エヴァ」全般が嫌いです。だからこれからかなり厳しいことを長々と書くと思いますが、ファンの皆さんごめんなさい。
 今回もやはり感じたのは、第6使徒出現から「ヤシマ作戦」への流れで、とってつけた感アリアリの展開については、フィルムの出来は抜きにして違和感がタップリ。多彩な変形を見せる使徒CGIは見事だと思うんですが、作品内で初めて導入されたCGとしてはお披露目のご祝儀分を含めて及第点といったところ。2Dパートを中心にCGに置き換えられた様々な細部についてはいい仕事はしていると思いますが、むしろプロダクションデザインという意味ではTVシリーズでほぼ完成されていたことが証明されていて、この10年の間、エヴァ以上にカッコいいプロダクションデザインやディテールは出現していないとも言える。それ故に同じスタッフがやってもそれ以上の仕事になっていないのはちょっと残念。
 あと設定の提示とそれに対する説明のみで展開されるお話(厳密にはお話とは言え無い)と徹底的にパターンかされたシュチュエーションの繰り返しは大いに退屈。そういう意味ではTV版の頃からの特徴をそのまま引き継いでいるとも言える。
 映画のストーリー展開はTV版を丁寧になぞりながら、もっぱら画的な表現を強化する方向に重きが置かれ、「みんなのために闘うシンジくん」を成立させるために必要な小幅な変化を施していく。本格的な変更が次回作以降と言うこともあってか、あくまでもリハビリ的な感じが拭えない。
 キャラ的に言えば、朗らかになったシンジ(緒方恵美の演技はイマイチ昔に戻りきれず)と「嫌な女」度が微妙に強化されたミサト(三石琴乃の演技も昔に戻りきれず)との絡みが中心で、「みんなのヒロイン・綾波レイ」の存在感が希薄になっているのが気になる。
 この新劇場版では、シンジの拠り所となる母性はもっぱらミサトが引き受けていて、お父さんに認めてほしい(社会性の確保)を望んでいる割にはいつも傍らに母親(のようなもの=ミサト)がいて、最後も文字通り彼女に手を引っ張ってもらったりする。「エヴァに乗る」ことを自問するモチーフは、TV同様に繰り返されるが自意識の発露とは直結せず、常にミサトがそれを補完してしまう。クライマックスで自発的に世界とつながることで生み出されるカタルシスも全肯定の母性に振り付けられた上に、設定の説明にその場を奪われてしまっては、主人公としては立つ瀬が無いのではないか。
 そのためか今回は、父ゲンドウとの間で綾波(ヒロイン)を取り合うエディプス的な展開にはならない。だいたい碇ゲンドウ自体の存在感も薄めで、冬月さんとニコイチな感じ。自己の存在を現実世界につなぎ止めるための媒体としての母親(or配偶者とか恋人、つまり異性という他者)の分身(クローン)を奪い合った結果として、父親と同じ行動を取ってしまうことになるエントリープラグからの救出シチュエーションも文脈が変わってしまっていて、旧エヴァの劇場版の時のような機能を失っている。
 そういう意味では、今後はアスカをはじめ何人かのヒロイン(?がつく6号機パイロットもいる)が投入されてくるわけですが、ミサト、レイを含め誰が真ん中に座るかでかなり展開が変わってくると思われる。
 「人と人との関係性」や「そのあり方」を重要視していながら、キャラ同士の設定上の立ち位置以外の事柄が積極的に描かれず、相変わらずドラマがほとんど無い。アニメ的なパターンを繰り返すだけの前半は特に辛いし、劇中登場する大人の行動が行き当たりばったりで、単に頭の悪い人にしかみえないのはホントに損。
 あと今作の特徴として、後半突如として「普通の人々」が大量に登場するのだが、あんな戦場に近い地域に暮らす一般人が存在しえるのかと言う意味でも疑問だし、世界を巻き込むような大変な事態が進行にしている割には、極東の島国のホントに狭い一部の地域で繰り広げられいる「世界の終わり」的な箱庭感が強いのはTV版と変わらない。そうならそうで、第3者的な他者の存在をノイズとして意識的に排除していた(画面上にもほとんど映らない)TV版のほうが、演出的にはしっくりくるような気がする。
 まあ、何のためにもならない文句はこの辺にして、公開当時ちょっと考えたことを1つ(あくまでも想像です)。企画としてみた場合の「新劇場版」ですが、やはり今回のリメイク企画を始めるにあたって、2005年に富野由悠季が作った新訳「Zガンダム」の存在がそれなりに意味を持っていたのではないかと思う。商業的もそれなりに成功であった「Z」のアプローチや方法論が、総監督の庵野秀明やこの企画に関わった人たちにそれなりの勇気を与えたのではないかと。庵野さんはそれなりに富野監督に影響を受けているので、結構アリだと思います。


 2本目については、あえて多くを語る必要なし。「青春映画」の傑作なのできるだけたくさんの人が観るべき。ガイナックスがらみの作品ではないんですが、一応キャラデが貞本氏ということで上映。「サマーウォーズ」が激しく楽しみ。


 3本目はガイナックスの原点。劇場で観るのは約20年ぶりだと思う。
 公開当時、岐阜か名古屋の小さな映画館でほぼ満員の状態で観た記憶が薄らある。当時高校生だった自分には大きな影響を受けた作品で、その後エヴァが引き起こした社会的な現象に比べれば小さな波だったとは思いますが、同世代の人たちで人生変わったと言えるほど大きな影響を受けた人も少なくないはず。
 ジュブナイルなストーリー、センス・オブ・ワンダーな世界感、それまでに無かった魅力を称えた貞本氏のキャラクターなど、最初にアニメ紙でみた瞬間に一目惚れ。ガイナのメンツに憧れてホンキでアニメの世界を目指そうと思いました。(結局は行かなかったけど、それは成績表を見たからではありません。)
 で、今回久しぶりに観て感じたのは、意外と古びてないということ。20年以上前にアマチュア同然のスタッフが作ったとは思えない出来であると再確認。サウンドをリニューアルしたバージョンで、しっかりドルビーが効いた音響設計は、最新の劇場施設での上映であっても、メリハリの効いたいい音が鳴っている。今では考えられないほど、バタバタした楽曲を提供しているのは「世界の坂本龍一」。エンディングでながれるメインタイトルは今でも好きな楽曲で、当時買ったサントラのLPを今でも持ってます。
 しかしながら、それでも時間の流れを感じてしまったのは、当時は高い評価を得た小道具や衣装と言ったディテールとわりかし泥臭かった貞本キャラ。やっぱりキャラの顔は日々色々な発明がなされていて、貞本さん自身がエヴァを境にかなり洗練されたのだと思う。(でも江川達也が参加した「リイクニ襲われる」のシーンのオッパイの動きは今でも健在。)
 それと当時のアニメ界において、如何に押井守が強い影響力をもっていたかということ。キャラの動きやカメラワーク、アニメ的な表現の多くに押井的(というか「ビューティフル・ドリーマー」)なものがちらつく。記録映像から起こした部分についてはさすがにそうではなんですが、若い人たちにとって80年代がある意味「うる星やつら」の時代であったことが証明されていると思います。
 あと元ネタが当時会社の社長かなんかをやっていたexオタキング・岡田の趣味全開であったことが笑える。
 それと「宇宙軍」という特殊な存在であるとはいえ、一応立派な軍人であり、社会人であるはずの登場人物たちの有様が、徹底的にモラトリアムな存在として描かれているのが面白い。その上、決して社会的に評価されない事柄に血道を上げていることに自覚的で、受け入れられなくていいというある種の達観(それでもまわりの人間を見返してやりたいという野心が無い訳でない)に裏打ちされている。こういった開き直りにも似た逞しさは90年代前半ぐらいまでは確かに存在した感覚だと思う。そういう漠然とした当時の若い世代の深層や社会へ溶け込んでいく過程で現れる心理の変化を普遍的な物語に載せて、上手く救い取っていて、監督の山賀博之がこの後一本もアニメを撮っていないことは大きな損失ではないかと思ってしまう。
 それが「トップをねらえ」、「ナディア」を経て、「エヴァ」へと繋がっていく様を見ると、ガイナックスという会社の作るアニメは時代と寄り添う能力が非常に高いと思います。
 そんなこんなで、スッカリ気分が盛り上がってしまったので、27日から公開されたばかりのこの作品を観ることに朝5時半(上映終了時)に決めました。そこで10時の上映まで漫喫で時間を潰して、

 を観た訳ですよ。でも、長くなったので感想は次のエントリーに、それでは。
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