横スクロール・スローモション の快感
音楽的なことについては、このエントリーをどうぞ。
いつもROMっているブログなんですが、これを読まなかったから見に行かなかったと思います。 素晴らしい文章をありがとうございます。 ウェス・アンダーソンは、「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」、「ライフ・アクアティック」と見ていますが、のめり込めるほど好きな作家ではありませんでした。 でもいつも感心するのは、美術と衣装、あと小道具類。
彼の描く世界は、基本的アメリカの上流階級の家庭の話で、お金に困っている描写が出てくることはありません。資産家ないしは、才能があって成功した人物ばかりで、庶民的な生活を描くことは少ないです。しかし、生活間溢れる高級なアイテムが印象的に登場することが多いと思います。
今回も、ヴィトンの旅行鞄がセットで出てきて、重要な役割を演じています。(オリジナルのモノグラムに、金のイニシャル入り。多分父親の遺品。)
基本的にお金持ちの優雅な生活と贅沢な悩みが描かれたりするんだけど、なぜかイヤミじゃない。共感はできないが、妙に納得させられるものがあります。
あと見た映画全てに共通するのが、父と家族。決して仲睦まじい親子関係ではないが、父親の不在(今回は映画の冒頭ですでに父親は死んでいる)を軸として、 家族が再生されるという極めてアメリカ的モチーフ。
先日来日していたジョージ・クルーニー兄貴も、アメリカ人の男の子はどんな形であれ、「お父さん」の影響を受けてしまうものだという趣旨の発言をしていたので、 ウェス・アンダーソンがこだわるのもその辺が原因か。
列車内のコンパートメントで起こる兄弟げんかは、いかに自分が父親から愛されているかによるもの。父の死により、バラバラになった兄弟の絆は元にもどるのか。
大人として生きてきて、すでに自我の固まっってしまった3人は、それ故に融和することができない。その上、兄弟ゆえに本当に私的な部分(奥さんのことや元カノなど)まで知られているので、なんだか都合が悪い。意地を張って、相手を尊重することができない。
列車による旅は、長兄フランシス曰く魂の再生の旅であり、人生そのもの。しかし3兄弟が列車に乗っている間はお話が進むことは無い。
ある騒動を起こしたことで列車を降ろされた3人は、とりあえず旅の本当の目的を果たすため、母親の元を目指すことに。
その過程で、おぼれた少年たちを助けようとするが、1人を助けそこなう。
少年の住んでいた村へ行った彼らは、少年の父親や村人たちから、歓待を受け、少年の葬儀に参列する。 しかし、この葬儀こそが映画の肝。3人が喧嘩別れし、母親が出奔した父親の葬儀の様子がオーバーラップする。 それぞれが全く違ったやり方で、愛する父親への思いを表現した場面が描き出されていく。
インドでも葬儀を終えた彼らの間には、すでにわだかまりは無い。
3人一緒にバイクに乗って母親を訪ねるが、彼女は彼らを迎え入れた翌日には、すぐに姿を消してします。ウェス・アンダーソンの映画では父親への親近感に比べ、母親は異次元の生物であるように見える。(久しぶりに観たアンジェリカ・ヒューストンの見た目のことでは決して無い。)
ともあれ、ラストシーンは印象的。インドに残り再び旅を始める彼らは列車を追う。(映画の冒頭と重なる。)ようやく追いつくが荷物(旅行鞄)が邪魔に。 しかし、3人は躊躇なくそれを捨て去る。非常にわかりやすオチだ。
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「おれたち、みんな、勇気がなかったんだ!」
名古屋では、昨年の12月下旬より先行公開中。3月末で終了ということもあり、2回目の鑑賞。 (映画はいつも名古屋で観てます。)
1度目の時もそうだったんだけど、お年を召した方の割合が多い。リアルにあの時代を知っている世代が見に来ている。
前半、原田芳雄によるナレーションに乗せて、1960年頃の日本(東京)を中心に社会主義・共産主義の嵐がいかに吹き荒れていたかが説明される。大学自治の確立と授業料値上げ反対に端の発し、日米安保を掲げる自民党政権の政策への反対へと変質していった学生運動が、いかに体制に敗北し、先鋭化していったかが駆け足で語られるので、基礎知識がないとつらいかも。
かくゆう自分も1度目は提示される情報を追うのが精一杯。しかし、わずか数十年前に、首都東京でほぼ内乱状態の騒動があったことには 唖然。この部分は、登場人物もさして多くなく(遠山美枝子、重信房子、塩見孝也など)ドラマとしては、ほとんど展開が無い。
軍事化・革命戦争の追行を掲げた塩見は赤軍派を結成、既存の左翼勢力と袂を分かつ。そして、実行作戦開始前に官憲の手で、組織が壊滅的な打撃を受けるさまが、淡々と描かれる。 (ここまでの間は、ジム・オルークのカッコいいスコアを聞きながら、ひたすら置いていかれないように見続ければいい。)
やがて組織として頭を失った赤軍派は、地下へ潜伏する。海外で活動基盤を作り出すため脱出する重信房子(伴 杏理)と遠山の別れの場面が物悲しい。
組織を先鋭化し、本質的な意味で自壊させる役割を負うのが、生粋の理論家左翼の塩見ではなく、簡単に世間に日和、居場所の無さ故に、涙ながらに帰還する森恒夫(地曵 豪)であるところが印象的。
一度組織を裏切り、あとの無い彼が、リーダーとして自らの足場を固めるため、より過激な手段に傾倒していく様子は、オウムなどでも見られた行動。
また、革命左派の永田洋子(並木愛枝)が終始女目線で組織を俯瞰し、自らの意に沿わないもの(特に遠山)を排除しようとするさまが、いかにもどこにでもありそうで怖い。
舞台が山中のベースキャンプに移ってからは、遠山という決して狂信者にはなれないが、さりとて行き場の無い人物が、一般人として視点を担う。 実年齢では、若干トウの立っている坂井真紀が、遠山を好演。
っていうか、合同軍事訓練時の彼女のドジっ娘ぶりがすざましい。いつ「てへぇ」っとか言って、自分で額を小突くんじゃないかとハラハラする。
およそ革命戦争を戦う闘士には見えない遠山(ヌードシーンもあるので、ドジっ娘萌えは必見)を、バラック小屋の中から暗い瞳で見つめる永田の心中や如何ばかりであろうか。
「どうしてあんなヤツがここにいるのか理解できん」と雄弁に目が語る。
一歩間違うとサークルクラッシャー並みの破壊力を持った遠山に対抗すべく、永田はリーダーの森(萌え属性なし)を利用する。
陰惨でリアルなリンチシーンが中盤を支配する。大の大人が大真面目に、小指の先ほどの事柄に因縁を付け、自己批判・総括を 求める。それが最初から暴力的なものでしかないのは明らかで(革命左派はこれ以前に脱走者2名をすでに殺害)、最初の犠牲者 となる革命左派の加藤能敬(高野八誠)は、疑念と侮蔑の感情を一身に受け、その恋人と共に激しい暴行の末、ベース外部に放置され死亡する。
これをきっかけに、赤軍派、革命左派の2つの組織は、互いにその構成要員の中から次々と生贄の羊をしたて、結果12名もの命を奪うこと になる。
中盤の山岳ベース事件の部分は、まさに最近の例を引けば、オウム真理教内部のリンチ事件と同じ。
総括や自己批判が、修行に代わっているだけで、自らを批判し体を痛めつけるさまや革命成就と意識の変革のため仲間に暴力 を振るう姿は、サディステックな欲望の発露というより、総括される側が生まれ変わり、新しいステージに立てるよう望んでいるように見える。
暴力による取り返しの付かない結果に対する自己弁護は、結果として更なるを暴力を生む悪循環。(オウムでもこれは同じ) ただし、やる側にいて一人だけ結果に満足そうな永田の様子が非常に不気味だ。
また、彼らが盛んに口にするのが、左翼的革命思想と軍隊という暴力機関であるという前提。軍人として目的通行のため、人間性を否定し、 強靭な精神と肉体を得るという思想が熱っぽく語られ、事態をエスカレートさせる。(最終的には、反革命的として数名を処刑している。)
徹底した個人の否定と上からの支配。従順であることは、結局自身の命を差し出すしかないという恐怖が全てを支配する。
日常生活の中でわかりやすく言えば、先生のいない教室で起こるイジメという感じか。
理由などどうでもよく、きっかけや理屈は行う側が設定する極めて恣意的なもの。一人がいなくなれば新しい誰かが選ばれる。
榛名山のベースキャンプ内部、執行部と一般構成要員が分かれてコタツを囲む。各々が寒さに凍えながら、思想書を開き、 それに目を落す。そんな光景が、まさに中学か高校の教室のよう。しかし、ひとたび森か永田は声を上げると、そこは凄惨な地獄と 化す。ことが終わり、今日生き残った連軍のメンバーは、また何事も無かったようにいつもの生活に戻っていく。
山岳ベース事件自体が非常に写実的に描かれているせいもあってか、リンチが引き起こされる原因の矮小さが印象的。 これこそがまさに普通の人間による暴力であると痛感させられる。
隠された真相などはなく、聞けばあきれてしまうほど、ありきたりの理由(それすらも無いかも)で、人は人に手をかける。
左翼思想にかぶれた化け物が、山にこもって何かをやったわけではない。その姿は今も日常の中にも潜んでいるのだ。
事件そのものを、人としてとても素直な感情の発露とその結果に過ぎないとして、永田以下事件に関わった者たちを描いたことで、この映画は語るべきことをほぼ語り終えたように思えた。
脱走者が発生し、山中での活動も支障をきたすようになる赤軍。森と永田は連れ立って下山し、そこで彼らの関係が明かされる。
必死になって仲間をまとめ指揮する坂口弘(ARATA)は、2人に呼び出され、街のアジト向かうが、そこで永田から別れ話を切り出される。 このシーンでは究極の自己弁護が展開され、すでに連合赤軍が解体していたことが明示される。
しかし、2人きりになった坂口が、同士以上の関係であった永田に対して、部下の死刑に疑義を唱える場面、映し出された永田の表情は 狂信者のそれではなく、弱いただの人のそれでしかない。
その後の坂口以下の生き残りの逃走と、あさま山荘での攻防戦は、原田眞人監督による「突入せよ!あさま山荘事件」に詳しい。 ただし、若松監督にこの映画を撮る決意をさせたのは、上記の映画でこの事件が官憲側の一方的な視点で描かれていることが一因になっているので、その抗議の意味から、山荘に閉じこもっている5人の赤軍兵士がどのような時間を過ごしていたが丁寧に描かれる。 (奥貫薫演ずる管理人の妻が可憐。)
タイトルは、兄をリンチにおいて亡くした加藤家の末っ子元久(タモト清嵐)が吐き出すように叫ぶ台詞。(自身も永田の手によって、リンチに加担させられている。) 追い詰められてもなお、現実を見ようとしない年長者たちへの怨嗟のこもった一言であり、あの事件がなんであったかを端的に語っている。 (クライマックスでテーマを台詞にしてしまうのはルール違反だとは思うが.)
時代が流れ、社会や思想の状況も大きく変化した。しかし、人間が生活している以上、決して変わらないことがある。 これはまさに人間による暴力の映画である。
どのようなことを信じていたかが問題なのではない、人間であることだけが理由なのだ。
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